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今のタンチョウ・・・

FMくしろブログ用_タンチョウ親子(生後約1ヵ月).jpg

タンチョウにとって今はどんな時期なんのでしょう?
ひなの誕生が始まっているそう。上の写真は生後約1ヶ月くらいのヒナです。
鶴居村では例年4月の末から5月のはじめにかけて孵るのが、数日くらい早い感じとか。
どうやらこの冬は雪が少なかったので、そういった意味では湿原は雪解けが早く、巣は作りやすかったのかもしれません。
雪の量が少なかったことと、4月にそんなに雨が多くなかったことがこの冬の特徴でしょうか。
よって4月の中旬くらい、卵を抱いているところで水に浸かってやられてしまうということは今年は比較的少なかったと思うと原田氏。
IMG_3865★FMくしろブログ用_湿原風景①.jpg IMG_3846_FMクシロブログ用_湿原風景②.jpg
卵が孵ってからの1ヶ月の間、特に生後2週間くらいが一番死亡率が高いそうです。
ヒナは掌に乗るくらいの大きさなので、カラスにくわえられて持っていかれたりもするそうです。
卵が2つ孵り、ヨチヨチ歩きのヒナは親がきちんとフォローしていれば良いのに、わりと一羽に気を取られて、もう一羽がフラフラ離れていったりしても目を離していたりということもあるそう。
タンチョウは卵は2つくらい産むそうです。その2つがすべてかえるとは限りません。
タンチョウはだいたい5月生まれが多いということですね。
32日というデータが平均的。厚岸では35日くらい。
もっと早い30日位で孵化するのもいるかもしれません。
5月中は自分で体温調節もできないのです。
雨に打たれてそれで命を落としたりすることもあるそうです。
原田氏の知っている例では、大人のタンチョウが人に追いかけられて普段子育てをしている場所から人家近くの水田地帯にきて、そこで田植え前の用水路に・・・親はまたぐことができるが、ヒナが流されてしまったということもあったそう。
タンチョウのヒナはとにかく生後2週間から1ヶ月の間は本当に死亡率が高いそうです。
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ですから今は人前にあまり姿を見せない時期と言えるのかもしれません。
※尚、ヒナと湿原の写真は原田修氏からお借りしました。

釧路湿原の偉人シリーズ4:辻井達一氏

辻井先生.JPGシャーロックホームズの大好きな人のことをシャーロキアンと呼びます。
全世界にシャーロキアンがいる中で唯一日本のシャーロキアン。
それが彼です。
辻井氏は植物生態学者。
サロベツ原野とか札幌近郊の泥炭地の研究をしていました。
泥炭をどの様にしたら利用できるかを研究していたのです。
例えば辻井氏の大好きな泥炭を使ってウイスキーを作るとか・・
泥炭を植物園の花壇に使うとか・・・。
海外が大好きでイギリスやカナダに行っているうちに、
泥炭地、いわゆる湿原と共生している人の取り組みを目にし、
泥炭地を開拓するだけではダメ、
開拓しない泥炭地のメリットに気づいたのです。
そこで、泥炭を開発の対象ではなく
うまく利用する対象にすることを考え始めました。
その考え方はラムサール条約のワイズユースとぴったりあいました。
たまたま独自の理念の中からたどり着いたのですが・・・。
厚岸や霧多布湿原にもいらしていました。
釧路湿原についても研究なさっていました。
積極的に湿原をどう活用していったら良いのかに知恵を出してくれたのです。
辻井先生の研究室で.jpg

新庄氏にとってはどんな存在なのでしょう?「第二の恩師。なんでも相談できる先生でした。
どうせ湿原を守るなら、どうせ湿原に関わるなら・・・大いに楽しめ、大いに利用しなさい。
湿原と関わることによって関わる人たちやその地域が楽しくなる、幸せになる、豊かになるということを考えましょう。それだけの価値があるのだから」とおっしゃっていたそうです。
今でいうエコツーリズムの普及やワイズユースのアイディアを出して、湿原の様々な価値を地域の人たちのメリットにするためのアイディアを提供してくれた方なのです。
辻井先生のパイプ1.JPG 辻井先生最終講義集の表紙.jpg
上の写真は辻井氏のパイプと、辻井氏最終講義集の表紙です。
※尚、写真は新庄久志氏からお借りしました。

釧路湿原の偉人シリーズ3:上田五郎氏&札木照一朗氏

二人の医師。上田氏は耳鼻咽喉科医、札木氏は産婦人科医。
上田氏は日本猟友会釧路支部の会長でした。そして、札木氏は英語堪能な方でした。
釧路湿原への市民の意識が高まってきた時に、澤四郎氏や田中瑞穂氏が釧路湿原保護協会というのを作りました。1970年代後半のことです。その時にいち早く参加された市民の代表みたいな方だったと新庄氏。
地域の方が、情報をもっている方が、みんな関わるという形をつくったのです。
そこには漁師の人や林業の人も入っていました。上田氏は積極的な自然をうまく守るという考え方にたった方。その普及をしてくれたそうです。
上田氏がいらっしゃることで非常に幅が広がったと新庄氏はおっしゃっていました。
湿原の色々な関わりのある方が参加するその窓口になったのです。
札木氏はアメリカの自然保護団体オーディボンスソサイアティというメンバーで、毎月のように外国の科学雑誌を読んでいらっしゃいました。札木氏が1970年代のラムサール条約の情報をいち早く釧路に紹介なさったのです。釧路湿原をなんとかしたいねと話している時に1971年に環境庁ができました。同時にラムサール条約がスタートしたのです。その情報を札木氏が紹介しました。
外国の渡り鳥の研究者が札木氏のところにやってきて調査をしたり、国際的な情報が豊富でそれを提供してくれたそうです。ラムサール条約の火付け役です。
先手を打てたのはこの方たちのおかげと新庄氏はおっしゃっていました。
上田氏は猟友会の方がこう考えてくれると、こんな参加の仕方があると教えてくれました。
札木氏は釧路において外国の方と英語でやりあうという刺激を与えてくれたそうです。

釧路湿原の偉人シリーズ2:澤四郎氏

沢四郎氏.jpg

もと、博物館の館長だった方です。考古学の研究者。栃木県からいらっしゃったそうです。
今の鶴ヶ岱公園に郷土博物館がありました。そこに一番最初に学芸員として着任されました。
釧路湿原の周りには丘陵地があります。そして、そこにたくさんの遺跡があります。
当時、北海道の考古学はすすんでいて、澤氏はこの周辺の遺跡にとても興味を持っていらっしゃいました。釧路湿原の中よりも周りの丘を歩き回っていたそうです。
当時は全国に博物館がたくさんできて、学芸員という存在をみんなが注目していた時代。
澤氏は新庄氏の上司でもあります。「博物館は学芸の殿堂である」と博物館学の真髄を常におっしゃっていたそう。なぜならば、museumだから、博物館はすべての地域の学問が集まるところ。だから学芸員は雑芸員であると常に聞かされていたと。なんでも研究して、なんでもみんなに伝えよ。そのために芸を磨けとおっしゃったそうです。そして、伝える技術も磨きなさいと。田中瑞穂氏の研究を聞いているうちに、湿原のできる過程と考古学で研究している過程が重なり、これをみんなに伝えようと考えたそう。市民に広めるために今の学芸員トークの前身となる博物館学講座を毎月開いたのです。
教育会館という場所で色々な先生、専門家を呼んで、市民を呼んで、講座を開催しました。彼は人のネットワークを全国に持っていて講師を全国から呼んだそうです。単に講座だけではなく、フィールドにも出かけました。湿原のことを釧路湿原巡見と言って市民を募集して無料で出かけたりもしたそうです。
普及啓発に熱心だったのです。新庄氏はまだ20代でした。
会議中の沢四郎氏(中央).jpg 湿原巡検を主宰する沢四郎氏.jpg
澤氏のすごいところは分野の違いところを繋ぐという点。研究者と市民を繋ぎました。
そして広いネットワークで、もっている専門の知識を普及啓発するのに尽力なさったのです。
それを最終的には新しい博物館に釧路湿原の歴史も自然も全部展示しようとなさった方なのです。
※尚、写真は新庄久志氏からお借りしました。